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松尾流の歴史
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ここでは名古屋を中心として活動している松尾流について簡単に説明します。
「元々京都で活動をしていたのによりによってなぜ名古屋?」
と、お思いになられた方も多いでしょう。

少し長くはなりますが、なるべく話し口調で退屈しないように書くよう努力します(^^)


・千利休って知っていますか?三千家とは?

主な流儀の歴史

さて!茶道を部活動や習い事としてやっていない方。
「松尾流って何?初めて聞いた…」
「流派なんて裏千家か表千家の二つだと思ってた!」
「え??流派って??・・・茶道は茶道じゃないの??」
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どれかに該当しませんか(笑)
恥ずかしいことではありません。
(ちなみに私は1つ目でした^^;)

確かに有名なのはいわゆる、表、裏の二つですね。
これらはどういったものなのか。を次から軽く説明していきます。

ここで順調に中学校、高校で歴史のお勉強をちゃんとなさった方、はたまた、とある歴史の漫画で見かけた方等々…
そういった方々には有名であります、「千利休」 という方をご存知でしょうか?

言わずと知れた有名人ですね。しかし利休さんについては、今回は置いておきます。ごめんなさいm(_ _)m

ここでは利休のお孫さんの「千宗旦(せんのそうたん)」にスポットを当てたいと思います。
千利休 千宗旦
千利休 千宗旦


千利休が亡くなった後、いわゆる「茶の湯」は
だんだんと一般の人々にも広がりを見せます。

そうした中、「小堀遠州」という方がいらっしゃったのですが、一般の人々でも楽しめるようにと茶室を広くしたり、明るい雰囲気にしたりして「受け入れられやすい茶の湯」を目指して活動していきます。

それに対して、千宗旦は利休の目指したいわゆる「侘び茶(わびちゃ)」の再興を目指します。
宗旦は多々の活動の他に息子たちを積極的に当時の大名に仕官させます。

高松松平家には次男の「宗守」が仕官し「武者小路千家(むしゃのこうじせんけ)」を、
紀州徳川家には三男の「宗左」が仕官し「表千家」を、
加賀前田家には四男の「宗室」が仕官し「裏千家」をそれぞれ名乗ります。

これらがいわゆる表千家や裏千家の最初ですね。
この三つを「三千家」といいます。

そして、もう一つ。
千利休の師の一人に「武野紹鴎」という方がいらっしゃいます。
茶道の元をたどると必ず「村田珠光(じゅこう)」とあわせて出てくる方なので覚えておきましょう。
侘び茶の祖とも言える方々です。

この武野紹鴎に学んだ利休の同門の「薮内剣仲」の「薮内家」を加えて、京都には「茶家四流」があります。

さて!大分本題から離れてしまいました…
でもどの流派の元をたどっても、歴史の教科書ですら、これらの人々は出てきますので覚えておいてもよいかと。

では次はさっそく松尾流の歴史についてです。
あと少しですのでお付き合いを…

抹茶

・じゃあ松尾流はどういった流れになっているの?

流儀ができるまで

ここから本題にいきましょう!

松尾流。
今までの話だと当然「松尾~」さんがはじまり…
ではないかと予想されますでしょうか。

松尾家の家系は「辻玄哉」を始祖としています。
「は?違うじゃん!」とお思いなのはもっともですね。少しお待ちを(^^;)

前の項目の最後の方に「武野紹鴎」が出てきましたよね?
お忘れのようなら読み返して下さいね。

玄哉は紹鴎から茶の湯を学びその奥義を極めたといわれております。
千利休ともつながりがあったとされて、古流の「台子(だいす)」をこの玄哉から利休は学んだとされます。
しかし、この玄哉、茶の湯者とはならず呉服を商って生計を立てていました。

ここから、ひとまず五代目までを見てみましょう!

玄哉の子供、「辻五助」ですが
ここから初めて姓を「松尾」と名乗るようになりました。

三代目は五助の子供「松尾宗二」は先ほど出てきました千宗旦から「楽只軒(らくしけん)」の書を譲り受けます。
これ以降松尾家は「楽只軒」と称しています。

そのあと、四代「松尾宗政」、五代「松尾宗俊」と続きます。
ここまでやはり茶の湯者とはならず、呉服屋さんとして生計を立てています。
そしてこれ以降、だんだん「松尾流」として成立して行きます。
活動本拠が京都から名古屋に移動する

ここからいわゆる「家元」が出てきます。
松尾流として一流派になります。

松尾家五代宋俊の養子にあたる、「楽只斎宗二」は町田秋波に茶の湯を学び、後に覚々斎原叟(表千家の六代目の家元の方です)のもとで奥義を極め、「松尾流」として一家をなしました。
ですから楽只斎宗二は松尾流の流祖になるわけです。

ちょうどそのころ、名古屋の民衆は「是非、利休の茶を学びたい!」ということで覚々斎原叟の元に「代理のお茶の先生を是非名古屋へ」とお願いします。
そこで覚々斎原叟の代理として先ほどの町田秋波は、名古屋へ千家の茶道を広めに派遣されます。

が、町田は三年のうちに亡くなってしまいました…

そこでさらに原叟は名古屋の人々にお願いされ楽只斎宗二を選び、派遣します。
そうして宗二は京都、名古屋をたびたび往復して茶道普及に尽力を尽くします。

以後、後々の家元も、京都、名古屋を往復し、そのうちに美濃、伊勢などの人々も門弟となり、活動の本拠地が名古屋に移行していきます。
松尾流歴史 

そうして続いてきて、七代目「好古斎宗五」が家元を務めていたときのことです。
この頃、明治維新の前後であり、茶道が衰退していく時代でした。
さらに追い討ちをかけるかのごとく、鳥羽伏見の戦いで京都の家を焼かれてしまい、全く困難な時代でした。

そのため本拠のある京都を離れ、名古屋まで疎開せざるを終えなくなります。
以来、松尾流は京都には戻らず、代々名古屋に住むことになりました。

完全に名古屋に永住をすると決めたのが九代目「半古斎(はんこさい)宗見」と言われていて、明治中ごろ。
それ以降名古屋を中心に活動しています。

ちなみに現在の家元は十二代目「妙玄斎(みょうげんさい)宗典」です。

さてさて、めちゃくちゃかるーくまとめてみました(゚∀゚)

興味がわいた!とか、もっと知りたい!とか、思ってくれたそこの貴方!!!

今すぐうちの部活に来てください。
やさしく、かつ丁寧に部活の先輩が教えてくれるでしょう^^

参考資料:茶道松尾流HP等  

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