ー「記憶」の果てに、憩いのひとときー
帝都の春は、まだ冷たい風を街角に残していた。
あの日の事件も、いつのまにか町の喧騒に埋もれようとしている。
あれほど小夜の姿に魅了されていた人々も、自動人形という技術に熱狂していた者たちも、今ではもう、その名を口にすることはない。
けれど、記憶は消えない。
あの場にいた者の胸に、彼女の残した在りし日の面影は、いまもなお静かに息づいている。
そしてもう一つ、消えることのなかった記憶がある。誰かが在ったという証を、誰かが手放さない限り――
探偵の手により見つけられたメモリーデータは、最終的にある男のもとへ届けられた。
配達人は言葉少なに封筒を置き、深く一礼してその場を去っていった。
薄い封筒の中には、小さな記録媒体がひとつ。
滑らかな金属の表面を撫でるように指が触れると、その裏面がわずかに傾き、春の日差しを受けて小さく光を反射した。
まるで、そこにまだ彼女が生きているかのように――
男は目を細め、息を小さく吐く。
(好事家)「……帰ってきたんだね、小夜」
書斎の隅、今は使われなくなった旧い読み取り装置の前に好事家は座る。
それは、かつて小夜の整備に使われていたもので、メモリーデータの状態を確認するためだけに作られた機械だった。
安定稼働に入ってからは使うこともなくなり、埃をかぶっていたものだ。
彼はため息を大きく吐き、円盤を装置に差し込む。
(好)「見るのは、もっとずっと先のことになると思ってたけど……。久しぶりに、君を見せてもらうよ」
――カチリ。
わずかな機械音が鳴る。静かな部屋に響いたその音は、小夜が“機械”であるという現実を、どこか冷たく告げていた。
(小夜)《……この街は、風が気持ちよくて、好き。あの店の窓から見える桜も……》
記録が再生され始める。
かつては、行動の記録や事実の羅列だったはずのデータは、今や、感情や思考のような揺らぎを帯びていた。
何気ない会話の交錯、コーヒーを注ぐときの心持ち――どれも、人形には本来備わらない、あまりにも人間的な記憶だった。
それは、ただの人の模倣ではなくなっていた。
誰かが彼女と過ごしてきた「憩い」が、やがて彼女自身の中に芽生えていた。
彼女は“感じていた”のだ。静かに、確かに。
そしてその“心”こそが、彼女がそこに“在った”ことの証だった。
画面の光が最後にまたたき、再生は終わる。
男は、何も言わず椅子に座り続けた。
やがて、彼はふと独りごちる。
(好)「……あれが、君の見えるようになった世界か」
そして、静かに目を伏せる。
その目は確かに狂気を帯びていた。
――もしも、生命なき自動人形に「死」を見出せるのだとしたら。
人が死後の天国を夢見るように、その「死」の先にも、苦しみから解き放たれた穏やかな“憩い”があるのだろうか?
小さな記憶装置は、何も語らない。
ただその裏面が、そっと、小さく光を反射していた。