1.よいメロディの演奏について
・よいメロディの演奏とはなにか
・人間的な演奏とはなにか
・心を込めた演奏とはなにか
2.うたごころ
・うたごころとはなにか
・うたごころを思い出す
3.フレージング
・楽器にうたごころを込める難しさ
・フレージング
・まとめ
今までは「音」に関するお話をしてきました。ある「音」を吹くときの口の形、音の立ち上がり、音の消し方などについてお話ししました。
しかし、演奏は音単体を吹くだけでは成立しません。複数の音を用いて「メロディ」を演奏しなければなりません。
今回は基礎編の最後として、この「メロディ」に関するお話をしていきます。
メロディ(旋律)とは、簡単に言うと連続した音の固まりのことです。その固まりを構成する一音一音は今まで述べてきたような「よい音」で演奏すればよいでしょう。
では、「よい音の固まり」はどのようにして演奏すればよいのでしょうか。単純に「よい音」を並べるだけでは面白くなさそうです。よいメロディの演奏とはなにか、「よい音の固まり」はどのようにして解釈し味付けを行えばよいのか、詳しく見ていきましょう。
機械による演奏は打ち込まれた音をそのままなぞるようにして出力するので、正真正銘の音を単純に並べただけの演奏です。機械による演奏と生身の人間の演奏を聴き比べてみましょう。
いかがでしょうか。機械による演奏はカラオケのガイドメロディのようでなんとも味気ないですね。このように単に音を並べただけの演奏は、たとえ人間の手によるものであっても味気ないものとなってしまいます。このような演奏は機械的な演奏であると言えます。
しかし、ややしいことを言いますがすべての機械による演奏が機械的な演奏とは限りません。全く味気なさのない機械による演奏の代表格はボーカロイドでしょう。いくつか聞いてみましょう。
ボーカロイドの機械的な声がなんとも言えない味わいを醸し出していますね。ボーカロイドは人間の声ではなく機械の音ですが、そこに先ほどの打ち込みのSummerのような味気なさは感じません。
私たちはこのボーカロイドという機械による歌声に人間らしさを感じることができます。だからこそ初音ミクなどのボーカロイドは愛され続けていますし、ペッパー君のように気味悪がられたりたまに蹴り飛ばされたりすることもないわけです。
このような音楽を通じて相手の気持ちが伝わってくる感覚を強く意識してください。これがこのページのテーマです。
味気ない機械的な演奏に対して、以上のような演奏者の気持ちが伝わってくるような演奏は人間的な演奏であると言うことができます。人間的な演奏こそがよいメロディの演奏なのです。
人間的な演奏とはなんでしょう。機械になくて人間にあるものと言えばなんでしょうか。
そう、心です!
難しく考える必要はありません。私たちは心を込めた演奏をすればよいのです!
音楽において「心を込める」とはいったいなんでしょうか。心を込めた料理というとなんとなく想像ができます。ですが、心を込めた音楽はいまいちイメージができません。料理に込める「心」は「まごころ」のようなものの気がしますが、音楽に込める「心」はそれとはまた違うもののように感じます。
しかし、この世には確実に「心を込めた音楽」は存在し、私たちはそれを聴いたときに「心がこもっているなあ」と感じることができます。
では、いくつか心が込められている演奏を聴いてみましょう。そして先ほど紹介した機械演奏と聞き比べてみてください。(本当はここで心が込められていない下手な演奏の動画を紹介したいところですが角が立つのでやめます。)
いかがでしょうか。心が込められている演奏にはあって心が込められていない演奏にはないものは分かりましたか。ここで「心」と答えてしまうと堂々巡りしてしまうので、音楽に寄り添った回答をするとどうなるでしょうか。
心が込められた演奏からはその演奏者の感情を読み取ることができます。反対に、心が込められていない演奏からは感情を読み取ることができず、「虚無」のような印象を抱きます。心が込められた演奏が感情を伝えることを可能にしている要素こそが、心が込められている演奏にはあって心が込められていない演奏にはないものです。
それは、うたごころと言います。うたごころはやや馴染みのない言葉ですので、類似の概念の抑揚、調子、表現力、情緒、情趣、味わいなどをイメージしてみてください。
ここまでの話を図にまとめると以下のようになります。なんとなくよいメロディの演奏の正体が見えてきましたか?
うたごころとは、「心」が音楽を演奏する際に現れる姿と考えてください。歌を聴いて楽しくなったり悲しくなったりした経験はあるかと思いますが、それは音楽を聴いた人が勝手に感情を湧かせているのではなく、音楽の提供者に対して共感をしているのです。この共感をする対象が提供者のうたごころなのです。どんなによい歌詞を歌っていたとしても、その歌にうたごころがなければ歌詞に説得力を持たせることができず、聴衆を共感させることはできません。
なんだかうたごころを使うということが難しく感じてきましたが、難しく考えなくても大丈夫です。うたごころは私たちが自然と持つ「心」を音楽に落とし込んだだけのものですから、心を持っている人であればうたごころを使うことが必ずできます。
そして、多くの人は今までの人生でうたごころに触れた経験をお持ちのはずです。特に義務教育現場の音楽の授業では、しらずしらずのうちに歌にうたごころを込める訓練をさせられています。真面目に音楽の授業を受けていたあなたは、うたごころを使ったことがあるのです!
では、福祉国家の恩恵を存分に享受していた頃に戻ったつもりで歌を歌ってみましょう。課題曲は「ふるさと」です。
どのように「ふるさと」を歌いましたか?機械音声のように歌った方はいないでしょうし、むしろそのような歌い方の方が難しいでしょう。自然と動画のような人間的な歌い方をしたかと思います。
あなたの歌い方を人間的たらしめた要素はたくさんあるかと思いますが、そのひとつは強弱です。詳しく見てみましょう。
たいていの人は冒頭のメロディを以下のように歌ったのではないでしょうか。
まず、「うさぎおいし」の「お」を伸ばすときにその前の「ぎ」よりも音量が大きくなって膨らむように歌います。その次の「かのやま」では、音高が上がるにつれてだんだんと音量が大きくなり、「ま」の周辺がこのメロディで最も大きな音となります。そしてやさしく「こぶな」と入り、「つりし」で音高が下がるとともに音量も小さくなり、落ち着くように「かのかわ」と歌います。
私たちは自然とメロディの流れに沿って強弱をつけることができる、つまりメロディの中で音の大きさに山と谷を作ることができるのです。そして、面白いことに多くの人でその強弱のつけ方は共通しています。
このことから言えるのは、私たちには一般に自然である、人間的である、心が込められていると感じる歌い方の共通認識が存在し、私たちは素直に歌えばその通りに歌うことができるということです。意識的にも無意識的にも「ここは普通こう歌うよな」という歌い方を他人にそれが伝わるようにすれば、その歌はうたごころのある歌となるのです。
さて、ここまでは歌におけるうたごころについて検討してきました。ここからは楽器におけるうたごころについて検討していきます。
ところで、なぜ音楽にこめる心を「うたごころ」と呼ぶのでしょうか。なぜ「音楽ごころ」ではないのでしょうか。
その理由は楽器の演奏にうたごころを込める難しさにあると考えます。
私たちは素直に自然と歌を歌えばそれはうたごころのある歌となり、楽器の演奏であってもその私たちが自然と感じる感覚を用いればよいだけの話なのですが、私たちは楽器の演奏となるとその感覚が鈍り、うたごころを演奏に込めることができなくなる傾向があるようです。
それは歌と楽器の感覚的な距離の違いによるのでしょう。歌はその行為が私たちの身体で完結し、音を出して心を表現するまでの過程が非常に単純です。しかし、楽器は身体の外部の道具を使って音を出して心を表現するので、その過程は複雑になります。管楽器は歌と同じく息を用いるのでまだ心を表現しやすいですが、指を用いる鍵盤楽器や弦楽器になるとさらに感覚的な距離が遠くなり、どんどん心を表現しにくくなります。
以上のような理由から、心を表現する音楽の代表として「うた」が選ばれて一般に「うたごころ」と呼ばれるのでしょう。
うたごころを感覚的に捉えることに限界があるとするのなら、理論的に考えるしかありません。うたごころを理論的に分析してみましょう。
うたごころのはたらきは2つに大別することができます。
一つはメロディを区切るはたらきです。
「ふるさと」を思い出してください。「うさぎおいし」から「かのかわ」までのメロディに注目してみましょう。「うさぎおいしかのやま」と「こぶなつりしかのかわ」の間でいったん区切りを設け、息継ぎをしたかと思います。「うさぎおいしかのやまこぶ」と「なつりしかのかわ」や、「うさぎおいしか」と「のやまこぶなつりしかのかわ」のような区切り方をした人は一人もいないでしょう。
このように、私たちはメロディをどこで区切るのが自然かという共通認識を持っています。
※このとき、以上のメロディの区切り位置はメロディとして自然だからではなく日本語として自然だからじゃないだろうかと思う人がいるかもしれません。そのような人は歌詞をすべて「ラ」で歌ってみてください。それでも区切り位置は変わらないでしょう。やはり、この区切り位置はメロディとして自然である結果であって、作詞者がその自然な区切り位置に合わせて日本語の歌詞をつけていると解釈するのが妥当でしょう。
区切られたメロディ一つ一つをフレーズと言います。うたごころの一つ目のはたらきはフレーズを設定することとも言うことができます。
もう一つは、フレーズ内部に味付けをするはたらきです。
先ほど述べた強弱もその味付けの一つです。強弱だけでなく音をつなげたり跳ねるようにしたりなど、フレーズ内部の音やそのつながりをどのように工夫して演奏するかも味付けに含めることができます。区切り位置ほど一般に共通しているわけではありませんが、みながふるさとを歌う際に同じように強弱を付けるように、ある程度どのように味付けをするのかという共通認識も存在していると言えるでしょう。
以上の話をまとめると、うたごころのはたらきは「メロディを区切ってフレーズを設定する」+「フレーズ内部の味付けを行う」ことであると言えます。このフレーズに関する一連の過程をフレージングと言います。フレージングは抽象的で漠然としたうたごころを理論的に捉えた概念と言い換えることもできるでしょう。
うたごころについて図にまとめると以下のようになります。
フレージングは楽器を演奏する際に必ず用いなければならない技法です。フレージングの無い演奏はすなわちうたごころの無い演奏、心が込められていない演奏、人間的でない演奏となりますから、どれだけ一つ一つの音がよい音であったとしても、フレージングが無ければ聴衆を退屈させ、さらには不快にしてしまうことすらあり得るのです。
話が長くなりましたのでフレージングという概念にたどり着いたところで一旦区切りとし、フレージングに関する具体的な話は次回に譲りたいと思います。このページの内容をよく理解してから次に進んでください。