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井川線とアプト式鉄道

工・土木・3 下田 正弘

1.はじめに

大井川鉄道といえば言わずと知れたSLの動態保存が有名である。他にも、旧京阪電気鉄道3000系、旧南海電気鉄道21000系(ズームカー)、旧西武鉄道351系等の電車史上に残る名車を運転している。これらの車両は、いずれも東海道線と接続する金谷とSL資料館のある千頭間の大井川本線で運行している。本線はSL列車を含めた観光輸送が収益の柱である大井川鉄道にとって、中心的な路線である。

一方千頭から井川までの井川線は路線長25.5kmで、大井川の深い渓谷に添いながらR50〜100もの急曲線や61ヶ所のトンネル、55ヶ所橋梁が続き線形が厳しい森林鉄道的な性格を有する。

2.井川線について

森林鉄道的要素以外に観光の目玉が少ない井川線で、大井川上流部に建設される多目的ダム、長島ダムの建設に伴い川根市代(現アプトいちしろ)−川根長島(現接阻峡温泉)間が水没するのに伴い、路線付け替えが行われアプトいちしろ−長島ダム間の約1.5kmは90‰(パーミル)勾配が存在する国内鉄道の最急勾配の区間となった(箱根登山鉄道の最急勾配は80‰、旧信越本線横川−軽井沢間の碓氷峠の最急勾配は66.7‰である)。90‰もの急勾配の区間を含む路線を選定したのは、この区間のトンネルを無くして大井川に添うようなルートとし、将来完成するダム湖への眺望を良くするためである。更に重要なことは、この区間を昭和38年(1963年)に碓氷峠のアプト式輸送が廃止されて以来、新たに、平成2年(1990年)10月1日よりアプト式で列車を運転したことである。アプト式列車を運行することの目的は、アプト式列車自体を観光化することと、時折議論に挙がる山岳リゾート地での登山電車構想にラックレール式鉄道(ラックレール式鉄道については後述。アプト式鉄道は、ラックレール式鉄道の一方式である)を採用する動きがあり、ラックレール式鉄道の技術的なノウハウを持つためだと考えられる。アプト式列車を運行すために後述する新形のアプト式機関車の投入のほか、重量の大きい新規のELと井川線の客貨車牽引(推進)用のDLを坂下側である千頭方に連結する必要があるため井川方に機関車(EL、DL)を制御できるクハ600形制御客車を製造した。DB1、Cト100、Cシキ300の3形式を除く井川線の車両はブレーキ制御弁へ電磁弁の設置、自連緩衝装置をコイルバネからゴム緩衝装置に変更し、制御回路引き通し設置等の改造を行った。

井川線はそもそも大井川上流部の開発に伴う資材輸送用の路線として形成された。昭和10年(1935年)に当時の大井川電力によって奥泉ダムの建設のため千頭−奥泉大井川堰堤(現アプトいちしろ付近)間の軌間762mmmの鉄道が開業し、大井川本線との直接運転を考慮して昭和11年(1936年)に現在の1067mmの軌間に変更した。太平洋戦争前後を挟んで井川線を運行する電力会社が幾度と変わり、昭和29年(1954年)に中部電力が堂平まで完成させ、井川ダム建設のための資材輸送の任に当たった。ダム建設輸送が終了後中部電力の専用鉄道からから大井川鉄道に貸与され昭和34年(1959年)8月1日に地方鉄道の免許を得て大井川鉄道井川線となって鉄道運輸営業を開始した。このころから井川線は、奥大井開発のための路線から観光路線と変貌していった。昭和46年(1971年)4月1日に井川−堂平間が廃止となった。昭和48年(1973年)には、定期貨物列車が無くなったが、赤石発電所建設のために昭和63年(1988年)から1994年(平成6年)の間まとまった貨物輸送が存在していた。また、沢間から寸又川上流部に千頭森林鉄道があり千頭、沢間間を三線軌条にして昭和43年(1968年)まで井川線に乗り入れていた。

沿線は先にも述べたとおり大井川に添うように急曲線、急勾配の続く非常に厳しい線形であり1067mmの軌間でありながら車両限界が軽便鉄道並みの規格である。アプトいちしろ−長島ダム間がDC1500Vの電化区間である他は、非電化区間である。線路沿いには平地はまったくと言っていいほど無く、千頭付近の中川根町の中心集落を除くと奥泉と接阻峡温泉駅の近くに山の斜面にはいつくばる茶畑とわずかな平地に集落が存在するだけである。また、井川から2、3キロ離れた大井川の上流部に井川集落がある。長島ダム建設に伴い水没する集落が金谷等の都市部に移転するなどの過疎化が激しい。大井川鉄道全体の沿線人口が3万人程度である中で、井川線の沿線人口は極めて少ない。また、井川線と大井川を挟んだ対岸の、大井川左岸に長島ダム開発用の道路が完成し、また井川集落からは富士見峠越えの静岡市中心部につながる道路もあり鉄道から道路へのシフトも見ることが出来る。従って、沿線でまとまった定期旅客などなく観光輸送が主体である。細々ながら貨物輸送も行われており、平成8年度(1996年度)の輸送実績は722tである。残念ながら長島ダムの建設資材輸送は道路による自動車輸送で行なわれている。

3.ラックレール式鉄道

大井川鉄道井川線、アプトいちしろ−長島ダム間で採用されたアプト式を含むラックレール式鉄道とは、列車が急勾配を走行するときにレール以外に粘着をもたすために歯軌条をに歯車を噛み合わせて列車を運転する方式のことである。日本語では、歯軌条鉄道と呼ばれている。リンゲンバッハ式、シュトループ式、アプト式、ロッハー式、フォンロール式等がある。フォンロールは開発した会社の名前で、それ以外のリンゲンバッハ、シュトループ、アプト、ロッハーは、開発者の名前に由来している。

ラックレール式の鉄道は粘着運転の限界である90‰以上の急勾配を走行するために使用され、観光を目的とした登山鉄道、一般鉄道の峠越え、鉱山などの貨物輸送、一部に坂のきつい都市部の路面電車などの用途がある。ラック式鉄道の最急勾配はピラトス鉄道の480‰(これは、世界の鉄道の最急勾配である)。

他のラックレール式鉄道の路線での最急勾配は、全線がラックレール式の路線の場合250‰、一部だけラックレール式鉄道の路線は125‰程度が多い。

ア.リンゲンバッハ式

1871年にスイスで最初のラック式鉄道であるリギ鉄道で採用され、改良型も含めて至るところで使用されている。

噛み合わせの図(右図)
図1
ラックレールの歯状形式
1条(組み立てタイプ)
かみ合い
垂直
分岐器への適用
やや複雑


イ.シュトループ式

平底レールの頭部に歯を刻んだもので、構造が簡単でありユングフラウ鉄道の他広く用いられている。

噛み合わせの図(右図)
図2
ラックレールの歯状形式
1条(レール加工)
かみ合い
垂直
分岐器への適用
簡単


ウ.アプト式

1882年にR.Abtが特許を得た。2〜3列の歯軌条を並べ車両側の歯車もそれに対応して2〜3枚に分かれ常に複数枚の歯車と歯軌条がかみあっている。碓氷峠と大井川鉄道ではこの方式が採用され、ラックレールとピニオンの数はいずれも3枚である。スイスのブリンツ・ホーン鉄道など世界各地の登山鉄道などで使用されている。

噛み合わせの図(右図)
図3
ラックレールの歯状形式
2〜3条(多板)
かみ合い
垂直
分岐器への適用
やや複雑


エ.ロッハー式

歯車と歯軌条が水平に噛みあうようにした方式。ラックレールとピニオンのかみ合わせ不良による乗り上げの心配の無いことから急勾配路線で使用される。480‰の勾配が存在するピラトス鉄道で採用されている。しかし、分岐部分でトラバーサを使用するなど構造が複雑であるので先の鉄道以外に採用の実績はない。

噛み合わせの図(右図)
図4
ラックレールの歯状形式
2条(垂直組立)
かみ合い
水平
分岐器への適用
不可


オ.フォンロール式

単板式歯軌条を用いているため構造がシンプルである。最近の新線や古くなったラックレールの交換用に使用されている。

噛み合わせの図(右図)
図5
ラックレールの歯状形式
1条(単版)
かみ合い
垂直
分岐器への適用
簡単


4.エントランス装置

粘着区間からラックレール式区間に進入するときには必ずラック歯車をラックレールに噛み合わさなければならない。そのために、エントランス装置が必要となってくる。

図6

ラック歯車は、まず第1エントランスの同期板を転がることにより車両の速度と同じ回転速度となり第2エントランス通過中に、歯車とラック歯先のピッチが異なるのでピニオンがラックの谷に落ちラックレールと噛み合う。

5.ED90形電気機関車

最近の東武鉄道の石灰石輸送の廃止、西武鉄道の貨物輸送の廃止などJR以外の民鉄での貨物輸送量の減少傾向に歯止めがかからないでいる中、大井川鉄道でED90形電気機関車が新規に製作された。JR以外で新型の電気機関車が製作されることは希であり特筆すべきことである。目的は貨物輸送用ではなく、アプトいちしろ−長島ダム間のアプト式区間に用いられる特殊なアプト式電気機関車である。アプト式機関車の新規製作は、碓氷峠で使用された旧国鉄ED42形電気機関車以来である。急勾配をラックレールを使用して克服するために、普通の電気機関車とは違った装置が取り付けられており興味をひかれる点がたくさんある。粘着軸とラック軸を併用して駆動・制御をおこなう。そのため、各軸に独立した電動機を持つ。井川線の機関車、客車、貨車がそもそも762mm軌間の線路規格、車両限界に対応して製作されたためED90形機関車もそれに対応するように車両寸法、軸重などの非常に厳しい条件で設計している。連結器取付高640mmであり大井川本線の880mmと異なる。車長は14020mm、車高は3420mmであり井川線の客車Cスロフ300形の車長11000mm、車高2690mmといずれのサイズもCスロフ300はED90の4分の3強であるけれども、ELとその他客車、DLの編成をみるとELだけが子供を先導する大人のようにみえて極めて目立っている。運転台へは外側のデッキから入るようになっていて、外観は、車体下部は白色、上部は赤色の塗装が施されている。正面上部の両隅にそれぞれ前照灯が1灯ずつ、デッキ下部の正面の左右の隅にそれぞれ尾灯と前照灯が1灯ずつ四角く並ぶ。前照灯、尾灯ともLEDで発光する。また、側面にはアプト式機関車を示すラックレールと歯車のロゴが入っている。機関車は、千頭方に単機又は、重連で連結される。90‰勾配をDLおよび客貨車14両を本機重連で登坂、降坂できるようになっている。また、降坂時に19km/hで緊急ブレーキを作動するようになっている。現在、ED901、ED902、ED903の3両が在籍する。

ア.主要諸元

重量(t) 長さ(mm) 幅(mm) 高さ(mm) 固定軸距(mm) 軸配置
56.0 14020 2060  3420
※3860
2200 B0−B0
ラック2軸
定格出力(kW/kg) 定格引張力(kW/kg) 定格速度(km/h) 最高速度(km/h)
粘着/ラック
212/350
粘着/ラック
5280/8500
14 上り:25
下り:19
歯車比 主電動機 ブレーキ方式
粘着/ラック
13.27/11.26
粘着/ラック
HS22228/HS22337
EL14A
制御方式 台車 パンタグラフ
総括重連制御
電空接触式抵抗制御
MH108 PT42

※はパンタグラフ折たたみ高さ

イ.各装置

a.ラック歯車

ボギー台車内中心付近に各1軸のラック歯車を搭載している。3列バネ入り、ピッチ円径878.5mm、モジュール38.2mm、ピニオンの歯数23、歯形はインボリュート。3枚のラック歯車は、1/3ずつピッチがずれている。引張強さ100kgf/?のニッケルクロム鋼で出来ている。

図7
b.台車

MH108形台車で鋼板溶接台枠を用いた軸バネ式ボギー台車。台車の一端にバネを用いた荷重分配装置を設けている。

c.主電動機

粘着用4台、ラック歯車用2台の計6台で各軸単独駆動する。直流直巻、自己通風式の電動機で粘着用はHS22228形で675V、53kW、1140rpm、ラック用はHS22337形で675V、175kW、950rpmである。

d.制御方式

重連使用を考慮して総括制御方式。回生ブレーキは、集電事故やアプト式区間に1列車しか走行しないことから回生が失効する可能性があるため採用せず発電ブレーキのみを用いた抵抗制御とした。ラックレールへのエントラス装置進入時にラック歯車のカラ回しを行い、その速度を自動制御する。

e.ブレーキ装置

降坂時は常時、発電ブレーキを使用して抑速しラック軸と粘着軸両方の軸にブレーキ力を作用するようになっている。停止・緊急時に使用し降坂時に常用しないブレーキは、自動空気ブレーキ、保安空気ブレーキ、OSDブレーキ、非常短絡発電ブレーキ、バネ式の駐車ブレーキがある。自動空気ブレーキと保安空気ブレーキは、粘着軸のみに作用する。空気ブレーキ弁の制御は電磁式とした。OSDブレーキは、降下速度が19km/hを越えると自動的に作用する強力なバネ式ブレーキで、ラック軸に作用する。非常短絡発電ブレーキは、電気機関車の制御回路が故障したときに直接制御で発電ブレーキが作動するような回路を構成し、停電時などでも時速5km/hで降坂することができるようにしたブレーキで粘着・ラック各軸に作用する。

f.その他装置

コンプレッサーは、C1000。連結器は、3/4サイズ小型自連。主抵抗器は、波形リボン抵抗器。低圧電源は、MGよりAC100V、5kVAのほかバッテリーフロートしたDC24Vと、100Vの2系統設けている。電子技術を用いてラック軸からの速度検知装置、デッドマン装置、ATS、エントランス位置情報などの保安装置を搭載している。

6.最後に

大井川鉄道は、沿線人口が3万人程度で金谷から先に行くほど人口が減少し終点井川で他の鉄道路線と接続しない典型的な過疎路線である。また、石灰石などの鉱石の貨物輸送や工場への原材料輸送も存在しない。奥大井開発の建設資材輸送も道路輸送に変化した。この金谷−井川間に鉄道輸送が存在しているのが不思議なくらいである。ワンマン運転等の合理化、SL列車を運行することによる観光客の誘致、鉄道イベントの開催など様々な経営努力が行なわれている。先のような経営努力の他に、井川線を所有する中部電力(大井川鉄道は、中部電力から委託を受けて井川線を運行している)から発電所建設補償として年に3億円近い金額が入り井川線の赤字補填されており、この補償金が鉄道経営を支えていることも事実である。もし、この電力会社からの赤字補填がなかったら間違いなく大井川鉄道井川線は存在していないであろう。

このような厳しい経営環境の中で、SL等の動態保存などを単に観光客を呼びこむためでなく、SLの保守・運転技術を後世に残していこうとする姿勢が見られる。SLに限ったことではなく、技術的に価値のある電車の動態保存的な運行や、新たにアプト式列車を運行するなど様々な鉄道技術を保存していく姿勢は敬服に値するものがある。また、トラストトレインの運行を行うなどボランティア活動に対する支援も並々ならぬものがある。アプト式鉄道の運転、技術の保存が、井川線にアプト式鉄道が完成した1990年当時よりも地球環境保護が叫ばれており、都市部で環境負荷の少ない路面電車を再興する動きがある中で、ラックレールを使用しての急勾配の登山電車を採用する動きもでてくることと想定され、重要な意義を見いだすのもそう遠くない将来であると思う。

一度だけ大井川鉄道に全線乗車したとき、運賃の高さに閉口したことがある。これは、旅客輸送需要が小さいためであり、その中のお金から沿線の足が守られ、アプト式鉄道が運行され、SL列車が旧客を引いて走っているのだと思い我慢した。けれども、車両の外観はいささか老朽化が進んでいても車内は清掃が行き届いている。駅で改札口を通るときは必ず切符のチェックをし運賃をしっかり取る事を忘れていない、など社員の教育は徹底していると思った。また、運転中の確認喚呼も徹底しているようにみえた。このことは、鉄道会社なら当然していることであり、基本的事項の徹底がこの会社を保っているのだろうと車内から蛇行しながら流れる大井川を見ながら思った。


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