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北恵那鉄道の歴史

(1)開業

北恵那鉄道は中央本線中津川駅から出発して木曽川を渡り、更に木曽川の支流である付知川に沿って北上して恵那郡付知町の下付知駅までの22.1kmを結んで1978(昭和53)年9月18日まで営業していたローカル鉄道である。

この鉄道はもともと、木曽川水系の電源開発を企画していた木曽電気製鉄が、付知川が木曽川に合流する地点より少し下流に大井ダムを建設するのにあたり、従来付知川を利用して筏流送していた木材の輪送ができなくなるため、水利権獲得の付帯条件として鉄道建設が命令されたことに由来する。木曽電気製鉄とは、当時、電力王と称された福沢桃介が社長となり1918(大正7)年に設立された会社であり、1921年には福沢系会社の合同により、のちの五大電力会社の一つである大同電力となった。

そして、1919年4月10日、福沢らが発起人となって中津町〜付知町間の濃尾鉄道の敷設免許を出願した。当初の計画では、軌間2フィート6インチ(762mm)、蒸気動力の予定であったが、翌1920年3月16日には、軌間を3フィート6インチ(1067mm)、動力方式を直流600V電気とし、名称も濃尾電気鉄道と変更する申請を出した。その結果1921年5月26日、同区間15マイル8チェーンの地方鉄道免許が交付されている。そして、1922年2月15日、大同電力が中心となって出資し、名称を再変更して北恵那鉄道株式会社が創立され、本社は名古屋に置き、初代社長には大同電力社長の福沢が就任した。

同年11月29日には工事施行認可を愛け、直ちに着工。1924年8月5日には中津町〜下付知間の営業を開始した。当初開設された駅は、両端の中津町と下付知のほか、中津町側から、苗木、並松、美濃福岡、美濃下野、田瀬の7つであり、中津町、美濃福岡、下付知には駅員が配置された。また、貨物輸送の便のため、中津町と国鉄中津川駅との間に連絡線が設けられている。一方、未開業区間である下付知〜付知町間は、土地買収難として再三にわたって工事竣工延期の申請を出したが、結局1931年9月、付知町〜下呂町間(「鉄道敷設法別表」に該当する国有鉄道予定線でもある。)敷設願の却下を機に工事を断念し、同年12月には下付知〜付知町間の起業廃止を申請、免許失効している。

開業にあたって用意された車両は、電車が木造4輪単車デ1型4両、貨車がフト100型(→ト100型)10両である。デ1型は梅鉢鉄工所製で、ウェスチングハウス社製48KWモーターを2台装備、また、ブリル社製ラジアル台車を使用し、車体はダブルルーフとなっていた。この電車は社線内の33パーミル上り勾配を貨車を牽引して上り得る性能をもっており、のちボギー台車への取り替え、車体更新によるシングルルーフ化等が行われたものの、その性能が重宝され、うち1両は電気機関車代用として木造車ながら1978年の廃線時まで使用された。

この鉄道はその敷設目的により、沿線からの木材輪送が大きな使命であり、1926年には皇室林野局材の輸送も開始している。また、同年、石材搬出駅として山之田川駅を新設したほか、1925年に恵那峡口、1928年に稲荷橋、1929年に上苗木の各駅を新設するなど、経営基盤も徐々に固まっていった。

(2)大井線

北恵那鉄道の敷設の契機が木曽川の大井ダム建設にあったことは先述したが、この大井ダムの建設のために中央本線大井(現恵那)駅から木曽川に近い奥戸までの2マイル4チェーン(4.3km)に大同電力専用鉄道が建設された(1922年3月完成)。ダム自体は1924年に完成するが、その後この専用鉄道を北恵那鉄道に移管して一般営業線とすることになった。これが北恵那鉄道大井線であり、1928年7月に譲渡及び地方鉄道への変更申請がなされ同年11月認可、同年12月1日新大井〜奥戸間旅客運輪営業開始の運びとなっている。この線は軌間1067mm、非電化で、専用鉄道時代には蒸気機関車を使用していたが、北恵那鉄道移管後は日本車両製の単端式ガソリンカー・ジ51形(出力20PS、定員30名)2両を使用し、1日9往復を運転、運賃は片道15銭であった。なお新大井駅は国鉄大井駅から阿木川を越えた位置にあり、また、中間には金竜温泉という停留所が設けられている。

この旅客営業は大井発電所勤務者や恵那峡遊覧客、木曽川対岸の蛭川・笠置方面への連絡客の輪送が目的だったが、元々当時の沿線人口が希薄だった上、折からの不況により恵那峡への観光客は予想よりはるかに少なく、鉄道利用客は年々減少し、最初の1年間の1日平均利用客数が124人だったのに対し、2年目95人、3年目53人、となった。加えてバスとの競合、新大井駅の位置の不便、線路状態の悪さもあり、1932年9月より営業休止となり、1934年9月には廃止届を出している。わずか4年足らずの営業期間であった。

大井線の廃止跡は現在大部分が道路となっているが、鉄道時代の構造物は既に跡形もなく、わずかに一部区間に堀割跡が残るのみである。なおガソリンカーはその後大同電力を経て1951年まで宮崎交通に在籍している。

(3)戦前〜戦中

北恵那鉄道では1931年に乗合バスおよびトラックの営業を開始し、また、続いて1935年には運送事業を開始している。

車両の増備については、付随客車としてハフ30形2両を1932年に鉄道省より譲受、ハフ51形2両を1944年に貨車改造で使用開始をした。また、ワム301形有蓋貨車を1935年に新造したほか、ワ201形を1925年大同電力より、ワ221形、ト131形、ト181形を1943年に横荘鉄道より譲受している。

ところで1936年12月15日、美濃福岡にある社線唯一の福岡変電所の電動発電機が焼損し、全線の電気供給がストップした。地元の人の話では、変電所への落雷が原因らしいが、このとき、急遽駄知鉄道及び笠原鉄道から1両づつ蒸気機関車を借り入れて運行を再開、翌年2月まで使用している。同変電所への落雷はもう一回あったというが、時期などはよく分からない。

ところで、1931年に満州事変、1937年に日中戦争が起きると、まず石油不足により1940年バスの運行を休止。また、1941年にはトラックも中津貨物自動車へ合同となった。また沿線に大都市近郊から疎開してきた軍需工場が立地したり、小学校などの建物が軍需物資の倉庫として使用されたことなどにより貨物需要が増加し輪送力不足となった。これに対しては前述のように横荘鉄道からの貨車の購入を行ったが、それでも足りず、国鉄貨車の借用により間に含わせていた状態だったという。また、車両部品・レールなど各種部品も入手困難な状況であった。

なおこの時期、電力の国家管理により、創業以来の大株主であった大同電力が解散。同社所有の北恵那鉄道株はすべて地元へ譲渡され、また本社も名古屋市から中津町(中津町駅構内)ヘ移転している。

(4)戦後:鉄道の最盛期へ

戦後は復興が急ピッチで進められた。まず1948年と1950年の2回にわたって増資が行われ、以前200万円だった資本金は1500万円となった。

車両面では、初の半鋼製ボギー電車としてデ8形1両(旧鶴見臨港鉄道→国鉄)を1950年に譲受した他、貨車としてワ251形5両、トム51形5両、ト1101形7両、ト1111形1両、ト1121形2両、ト1131形1両を1948年に運輪省(国鉄)から譲受しており、その結果車両数は電車5両、付随客車4両、貨車48両にまで増えた。施設面では1949年に栗木駅を新設したほか、同年に老朽化していた福岡変電所の電動発電機(AEG製)を国産の水銀整流器に取り替えている。また戦時中、ガソリン統制により営業を休止していたトラックを1925年に、乗合バスを1953年に再開したほか、新たに1954年から貸切バスの営業を開始している。

戦後復異も終わった1950年代中期以降は、旅客、貨物とも着実に輪送料を伸ばしてゆき北恵那鉄道にとっては黄金時代を迎えることとなった。特に、高枝進学率の上昇を背景としてか定期旅客輪送人員の伸びが自立っている。

このため付随客車ハフ10形2両を三岐鉄道より譲受(1957)した他、中津町駅構内に2カ所目の変電所を新設し、山之田川付近の急勾配区間での電圧低下が改善されている。一方貨車両数については、1948年で最大に達し、以後徐々に廃車され減少したが、貨物輪送量そのものは順調に伸びている。また、1961年には最後の新設駅となった関戸駅を開業している。

この頃の状況は、「鉄道ピクトリアル」別冊『私鉄車両めぐり第1分冊』(1960)において吉川文夫氏により報告されている。(1959,6執筆)が、これによると当時は電車5両、付随客車6両を用い、旅客・混合列車合わせて約1時間へッドで1日13往復が運転されていたという。なお貨車については記述がないが、「私鉄統計年報」によると1959年度末で27両である。

1959年9月、東海地方にかつてない被害を与えた伊勢湾台風が来襲。北恵那沿線にも大きな被害を及ぼしたが、このため木曽川が増水し、中津町〜恵那峡口間にかかる北恵那鉄道の木曽川鉄橋も、流失こそ免れたものの運行に危険な状態となった。そして1961年6月の集中豪雨の際にも同様の状態となったため、1962年2月から鉄橋を4メートルかさ上げする工事が行われ、1963年4月に完成した。これに伴い従来鉄橋を渡ってすぐ北側のところにあった恵那峡口駅は160m程西へ移転し、また工事終了前の2カ月余りは中津町〜恵那峡口間の運行を休止してバス代行としている。総工費は3500万円であったが、この工事を契機として名鉄が資本参加し、資本金も3500万円から6000万円に増資されている。以後徐々に名鉄の持ち株比率が高まり、北恵那鉄道は名鉄グループの一員として近代化、合理化を行ってゆくことになる。

(5)1960年代中期以降〜廃線まで

1960年代前期の北恵那鉄道は、定期旅客や貨物の輪送量の順調な伸びにもかかわらず、車両等の老朽化は著しく、特に電車・付随客車は未だに小型の木造車が大半であるという状態であった。また定期外旅客輪送量は1950年代中頃から既に頭打ちになっており、これらのことを考えると、車両等の更新が望まれていた。そこで、1963年に名鉄が資本参加した後は、車両の取り替え、駅の業務委託、無人化など、積極的な近代化、合理化を推進することになった。

まず、名鉄から1963年にモ320形1両、ク80形2両、それに初の電気機関車デキ500形1両を購入した。名鉄からは次いで1964年にモ560形4両、1966年にク550形1両、が入線し、在来の電車、付随客車はデ1形1両、デ8形1両を除いた9両が1963〜1966年に廃車となっている。新たに入線した車両は、デキ500形が1924年製の元西尾鉄道、モ320形が1921年製の元名古屋電鉄、モ560形が1926〜27年製の元瀬戸電気鉄道、ク80形が1921年製の元三河鉄道、ク550形が1922年製の旧愛知電気鉄道と、北恵那才リジナル車に員けるとも劣らぬ才一ルドタイマーばかりであり、特にモ320形やク550形は木造車の外板に鋼板を張っただけの簡易鋼改車であったが、いずれもボギー車で全長は12〜15m級であり、在来のデ1形が10.7m、付随客車はマッチ箱級の6〜9m程度だったのに比ベ、輸送力、保安度とも向上している。ただし自動ドアは北恵那鉄道では廃止時まで使用されなかった。

その後も、1967年にデキ250形(旧名鉄・1952年製)1両、1973年にモ560形1両を名鉄から購入し、1970年にデ8形1両とデキ500形1両、1973年にデ320形1両を廃車している。また、古い社有貨車も徐々に廃車されている。

また、合理化のために1965〜66年に山之田川・上苗木・田瀬の各駅を業務委託としたほか、タクシー運行、キャンプ場開設など多角な関運事業を展開している。

しかし、1960年代後半になると、モーターリゼーションの渡を受けて旅客、貨物とも急激な輪送量の減少に見舞われるようになり、1968年度には鉄道部門に477万円の赤字を計上した。以後、恒常的に赤字が発生し、その額も年々増えていった。このため、会社としては一層の合理化を迫られることになる。そこで、1968年、山之田川、上苗木、田瀬の業務委託を廃止して無人化し、新たに美濃下野駅で業務委託、翌1968年には並松駅も、業務委託、1971年には苗木駅を無人化している。また、山之田川などの貨物扱い廃止も行われた。

列車運行についても、列車削滅、開塞区間の統合などが行われたが、1972年1月には究極の合理化策として列車運転を朝夕のみとし、日中は同社のバスで代行することにした。この結果、1966年10月改正時には全線直通下り16本、上り15本、中津町〜美濃福岡間の区間列車が下り2本、上り3本、この他、中津町〜山之田川間に不定期貨物列車が2往復あったものが、1972年以後は全線直通6往復、美濃福岡〜中津町間上り1木のみに削減され、以後この体制のまま廃止時まで運行されたが、列車削減が逆に客離れを呼んだ面もあり、定期外客が滅ったのは当然として、1973年度以降は定期客も一挙に減少している。また、従来減少率の低かった貨物輪送量・収入も、1974年以降急激に減少している。一方、これまで慢性的な赤字体質だった自動車部門についいても、1971年にワンマンバス導入、不採算路線の廃止などが行われ、1970年度に初めて黒字を計上した。

鉄道の赤字は増える一方であり、1977年度には鉄道部門の営業収益4151万円に対して営業経費は1億5956万円と、ついに単年度赤字が1億円を超えた。このため、自動車など関連事業の黒字にもかかわらず、会社自体の決算は1967年度以降欠損続きであった。ただでさえ沿線人口が絶対的減少を示しており、それにマイカーの普及があいまって鉄道の旅客増加の見込みはなかった。そして1974年度から受けていた国の地方鉄道整備補助金が1977年度までで打ち切られたことにより、会社は1978年、鉄道の廃止を決定し、運輪省に申請した。これは同年8月25日に認可され、同年9月18日を最後に54年にわたる列車運転の歴史に幕を下ろした。

参考文献

「軌跡をゆく・廃止十年の北恵那沿線」
(岐阜新聞社編・著, 1989)
「私鉄車両めぐり特輯 第1分冊『北恵那鉄道』」
(吉川文夫・鉄道図書刊行会, 1960)
「私鉄車両めぐり特輯 第8分冊『北恵那鉄道』」
(白井良和・鉄道図書刊行会, 1967〉
「私鉄車両めぐり[87] 『名古屋鉄道』」
(「鉄道ピクトリアル」1971.4月号,渡辺肇・加藤久爾夫)
「電源開発と鉄道−中部地方の実例を中心として」
(「鉄道ピクトリアル」1986.3月臨時増刊号,青木栄一)

文責:岡崎 太 (文−地理 3年)


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