昭和40年春、名古屋大学2年生4名が将棋同好会を結成した。 学館のロビー当たりで、パチリパチリとやっていたのは桜山朝彦氏、西村弘彦氏、三ツ谷繁男氏、横山晴彦氏といった面々であった。 これが現在の名大将棋部の始まりである。 昭和40年から42年ごろまでは記録もほとんど残っておらず、中部学生将棋連盟もまだ発足前で、いわば将棋部神話の時代とも言うべき頃である。 それでも、愛知大と対抗戦を行ったり、桜鳴寮で将棋大会を催したりして、活発に活動していたようである。 また、42年度から順位戦も開始されており、初代名人には、桜山氏が就いている。
しかし、何と言っても43年秋からの中部学生リーグの開始は、将棋部(当時は将棋同好会)にとっての新たな第一歩だったに違いない。 その第1回大会で名大は、愛知学院大、名工大、愛大名古屋、名古屋学院、愛大豊橋、名城大、中部工大を押さえて見事優勝している。
翌44年の春からは個人戦が、さらに45年からは新人戦が開始された。 別表を見てもわかるように、初期の頃から、他校に比べ、優勝者を何人も輩出し、かなり層が厚かったことがうかがえる。
さて、同好会のほうは、46年に文化サークル連盟に加盟し、正式に名古屋大学将棋部となった。 そして、47年から、機関誌として『十字飛車』の発行を開始した。
我が部におけるもっとも輝かしい記録は、なんと言っても49年の王座戦優勝である。 それまでは、関東・関西校に押され気味であったのだが、翌年には南山大が王座戦を優勝し、2年続けて中部地区が栄冠を勝ち取った。 これは「東海の学生将棋も、東京に近づいた」と板谷進八段(当時)に言わしめたほどの快挙であった。
その後の名大は、中部大会では圧倒的な強さを見せるものの、王座戦優勝にまでは至らなかった。 特に菱田正泰氏を大将に擁した昭和55年・56年、蛭川敦氏を大将に擁した平成4年・5年には優勝の期待も膨らんだが、関東校の壁に優勝を阻まれた。
一時は王座戦ではまるで歯が立たないというほど落ち込んだ時期もあったが、平成18年に新入生で実力者を多数獲得することに成功。 同年王座戦で第4位、続いて平成19年毎日杯では第3位、さらに平成20年毎日杯では準優勝という成績を収め、全国制覇にあと少しで手が届くところまできていた。
しかし、平成22年度秋季団体戦において名城大学に敗れ、中部地区の連覇記録が33で止まってしまった。 この33連覇の記録は先輩方の積み重ねによって生まれた偉大な記録であることを忘れてはならない。
団体として結果を出す(地区大会優勝・全国大会出場、全国大会で上位入賞)ということは、学生将棋において最重要事項であると言っても過言ではない。 この目標を達すべく、部員全員が切磋琢磨する今日この頃である。