三つの稽古 師範 魚 住 一 郎
最近、弓道では「稽古」という言葉はあまり耳にしなくなって、「練習」と言うことが多くなりました。弓道に限らず「稽古」ということは、もともと「古くを学ぶとか学習する」という言葉です。
練習するという言葉からは、学ぶとか学習するということよりも弓射を実際に行うというといった感じに受け止められやすいように思われます。そういった意味では、「練習」よりも「稽古」の方がもっと幅が広い言葉であると思います。稽古という場合は、「射の稽古以外に古いことや実技以外のあらゆることを学ぶこと」という意味があることをまず理解してほしいと思います。
古くから稽古には三つあるとよくいわれます。一は「射前の稽古(実技の稽古)」、二は「見取り稽古(他人の射前を拝見して参考にする稽古)」、三は「工夫稽古(自分であれこれ工夫してやってみる稽古)」です。
最近では、射前の稽古がほとんどで、見取り稽古をするということが少ないように思われます。他人の良いところ悪いところをよく観察して、他山の石として自分の稽古に取り入れるという意識が少ないように感じます。先生や講習会などで手取り足取り、懇切丁寧に指導されるのでめきめき上達し、見取り稽古や工夫稽古があまり必要ではないかもしれません。
見取り稽古や工夫稽古を重ね、時には間違った稽古もして、時間をかけ苦労を重ねて得た技と、教えられ指示された通りに稽古して大した苦労もなく短期間で上達した技とでは、その中身は大変な違いがあります。
講習会や審査などで矢渡や模範射礼を拝見するだけが見取り稽古ではありません。試合に出れば自分の出番が終われば最後まで観戦せずにサッサと帰ってしまうようなことはありませんか。それでは見取り稽古が出来ていません。試合でも審査でも後ろの方に見応えがあり参考になることが多いのです。見取り稽古は、射前は勿論のこと射手の体配や射技など射業全体からにじみでる素晴らしさや射品なども是非感得してほしいものです。
また、分からないことがあるとすぐ先輩や先生に聞いたり、教えられたことが出来れば事足れりと思ってはいませんか。
先輩や先生に教えを乞えば、非常に効率がよく成果も得られることは間違いありません。表面的には出来たようにみえますが、それでは十分な稽古とはいえません。初心のうちはそれでもやむをえませんが、稽古を積んでくれば、まず教えを乞う前に指導書や著名な先生の本を紐解き、自分で考え工夫し、苦労を経験することによって、射業だけでなく自らの人格の陶冶にも裨益するところが必ずあるはずです。
こうした努力、経験を弛まず積み重ねることによって、目指すところの「弓道」となり得るでしょう。
尾州竹林流「四巻の書」にある「高山推車」という教えを忘れないようにしたいものです。