一分三界 師範 魚 住 一 郎
尾州竹林流『四巻の書』父母の巻二十三に「一分三界と言う目付の事 口伝の様萬々。当流の大事の目付なりと云々。」ということが記されております。
目付とは所謂狙いの事で、一分は物差しの一分(約三ミリ)で極めて小さな目中を言い、三界とは欲界・色界・無色界(世界のこと)のことで、天地間の茫大な所(宇宙)をさします。
その意味は「一分を三界のごとく大なるものに見開き、又、三界の大なるものも其の中の一分の所に目付をする心を言う。即ち僅か一部の小さな目中も心と視力の修練の功によって三界の如く大きく見ゆるようになることを言い、又、三界のような大なる目中もその一分の真中に星を入れ錐もみに視力を集中して目付をなし、決して大なる目中なりとも疎かな目付をなすべからずという教理である。」と注釈されています。
又、狙いについては、初勘の巻にも「雪の目付」と言うことが記されており、「降る雪の一片を見定めて其れを地に落ちる所迄を見極めることで、心と目と一致することによって見定め得るもので、即ち心眼を用いる所である」と注釈されております。
「一分三界」も「雪の目付」も目と心を的に集中することの大切さを強調した教えであります。
同じ的でも大きく見えたり、小さく見えたり、同じ距離でも近く感じたり、遠く感じたり、外れるような気がしなかったり、中るような気がしなかったりした経験は誰にでもあると思います。
的に囚われると言うことは、中てたいという気持ちが先行し、ここで言う「目付」が十分にできず、的に対する集中力が欠けていることも大きな原因と思われます。
心して修練したいものです。