修身以為弓 矯思以為矢 立義以為的 奠而後発 必中矣 師範 魚 住 一 郎
修身以為弓 矯思以為矢 立義以為的 奠而後発 必中矣
(身を修むるを以て弓と為す、思(こころ)を矯(ただ)するを以て矢と為す。
義を立つるを以て的と為す、奠(さだま)って後発す。必ず中る。)
これは、尾州竹林流星野家の伝書の中の一句ですが、その意味について魚住文衞道統十二代は、「四巻の書講義録」の中で、
『弓を稽古するのには、単に射術・射技などだけでなく、自分の行いや心を正しくし、義理人情を篤くするなど人格の向上に努めよという教えであり、人の道と弓術が相俟って弓道が成立するという意味であります。』
また、『尾州竹林流の伝書には弓道という字が随所に使われており、流祖の時代から、単に射法射技だけでなく、人格の陶治をも要請されていたことが窺われます。』と説明されております。
この教えは気持ちを素直にし、礼儀を重んじ、相手を気づかい、勝って奢らず、失敗しても迷わず、常に反省し「正射必中」の信念と確信を持って修練する事が大切であることを教示したものです。
伝統的な日本の武道は、本来心身の鍛錬を目標にしており、宮本武蔵も「五輪書」のなかで、「千日の稽古を鍛と言い、万日の稽古を練という」といって稽古の重要性を指摘しております。
稽古は、いつも楽しいものとは言えません。稽古の過程では、自分の心との葛藤、欲望や迷い、恐れや落胆、悲しみや苦しみなど色々なことが起こります。苦しみや悲しみに耐え、いろいろな障害を乗り越えることによって、心身を鍛え、人間性を磨き上げていくところにその意義があります。
かつて、中学の先生が、「人間」という字句について、『人ひとりでは人間ではない。人と人が関わり合い、支え合っているので、人の間と書いて人間という。』と言われたことを思い出します。
辞書によれば、人という字は人の立った姿勢を書いた象形文字で、もと身近な同族や隣人仲間を意味したとされております。
よくよく考えれば、何をするにも相手があり、また相手がいなければ何をすることもできないことは明らかです。
他人と関わり合いを持って生きていれば、当然コミュニケーションが必要であり、その手段として、会話の仕方や好ましい振舞い方にも自ずとルールや心掛けが必要となるでしょう。ここに礼儀とか人間としての行動規範・道があるわけです。
から弓射の原則は飛・貫・中とされ、矢を遠くへ飛ばし、且つ堅い物を射貫く力が強大で、然も中らねばならないと云われている。この三つの条件を満たすのが正射正中である。
この正射正中を求めるためには射法の基本に徹して練習を積み重ねる努力が肝要である。
また、弓道は武道であり、礼と和と不屈の精神力を涵養する人間修養の道である。「射は仁の道なり正しきを己に求む」と礼記射義にあるように、一射毎に反省して正しきを追求しなければならない。弓道の最高目標が真善美の追求であると云われる所以である。
昨年は名大弓道部の女子が全日本学生弓道選手権大会で優勝の栄誉を得たが、男子は東海学生弓道リーグ戦で満足の成果を得なかったことは残念である。
翻って昨年第三十九回全日本学生弓道王座決定戦の成績を見ると、愛知大学が東海学生弓道連盟の代表として出場し、第一回戦は九十六射七十九中(的中率〇・八二)の好成績で第二回戦に進出し、第二回戦では愛知大学は九十六射七十一中(的中率〇・七四)、日本大学が九十六射八十九中(的中率〇・九三)で愛知大学は敗退したが、日本大学は次々と勝ち進み決勝戦に於ても百六十射百四十八中(的中率〇・九三?二十射皆中四人、十八中三人、十四中一人)という驚異的な的中率によって優勝している。このことを考えると人間の能力には限界がないといえるのである。
名大弓道部諸君の正射正中による的中率の向上を期し、部員一致団結し一層の奮起を希望してやみません。