期待 師範 魚 住 文 衞
弓道を修行する上において心技両面からいろいろの教えがあり、その真理を追究してゆくことが大切であると思います。私の経験から云えば、初学のうちは射術射技を重点として重ね、射技が或程度進歩向上するに及んで精神面の修練が大切であることを痛感するようになります。即ち、一射一射に全身全霊を傾注して射技を生かすことであります。
古来、練習方法の一つとして「矢数稽古」ということがありますが、これは練習の矢数を多くすることによって技倆を上達させる方法でありますが、単に矢数を多く練習すればよいということではなく、一射一射に全身全霊を傾注して而も練習の量を多くせよということであります。それには時間(日時年数)もかかります。矢数を多くするために粗雑、無造作な射を行なうことは百害あって一利なしです。
一射に全身全霊を傾注せよという趣旨の教えは古来いろいろの用語で教えられ、次に列挙して参考に供します。
一、紀昌貫蝨の伝
大意=小を視ること大の如く、微を視ること著の如し。
二、一分三界の目付け
大意=的を狙うのに一分(〇.三糎)の小さい的を三千世界(宇宙)のように大きく見開くこと
三、雪の目付け
大意=動く標的を狙う場合に、空から降る無数の雪の一片が地に落ちるまで見失わないように精神を集中せよ。
四、寒夜聴霜
大意=寒中の真夜中に結霜する音(無音の音)を聴きとるように澄み切った心境で行射せよ。
五、七情を除去せよ
大意=人間の七情(喜、怒、憂、思、悲、恐、驚)を去って精神を一射に集中せよ
六、無念無想
大意=概ね同前
三、思無邪
大意=概ね同前
四、中り拳
大意=精神の集中によって的を手元に引き寄せて射ること。
上記の教義は皆精神統一に関する教えでありますが、そのうち第一に掲げました「紀昌貫蝨の伝」について概略を説明いたします。
紀元前三〇〇年〜四〇〇年の頃、支那の韓の国に飛衛の師は甘蠅という人で、この人が弓を引くとまだ放さないうちに獣は恐れて地に伏し、空を飛んでいた鳥は地に落ちるほどの名人であった。飛衛は甘蠅に優るとも劣らぬ名人であったが、飛衛の弟子に紀昌という人があった。紀昌が飛衛に射を学ぶにあたり、どんなことを重点に修練すべきか問うた。飛衛曰く、先ずどんなことがあっても瞬(まばたき)をしない修練をして、それができるようになったら私に報告せよと。そこで紀昌は家に帰って妻が機(はた)を織っている下へ横臥して、牽挺(けんてい)が目の前に来ても瞬をしないように練習を重ね、二年後には錐の先が目の前に倒れてきても瞬をしないようになったので、その旨を飛衛に報告した。そこで飛衛曰く、それだけでは駄目だ。今後は小さいものが大きく見えるような修練をせよと。それで紀昌は家に帰り、蝨(しらみ)を髪の先に結びつけて窓に垂れ、それを南面して見つめることを続け、一ヶ月程たって、やや大きくみえるようになり、更に三年後には車輪のように大きく見えるようになり、また何を見ても丘や山のように大きく見えるようになって、遂に蝨の心(中心)を射ぬくことができた。という教伝であります。
この故事を一読して“そんなバカな話があるか”と思う人もあろうかと思いますが、行射に際し精神統一の極に達すると、的が手元の方へ寄ってきて大きく見えることがあります。そんなときは必ず的中するものです。