第26号 悟弓巻頭言

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 弓禅一如      師範 魚 住 文 衞



 近年弓道愛好者の間で「弓禅一如」ということをよく耳にするが、この言葉の内容がどのように理解されているかというと、各人の理解の仕方に若干の違いがあろうと思う。

 私は禅の修業をした経験がなく、禅の本質や意義についてはよくわからないが、辞書に依れば、仏教で云う禅とは「心が安定し邪念にとらわれない境地。静坐して直感的に心理を悟る修行をすること。」と説明されており、これを我流に解釈すれば、精神を統一集中して宇宙の根本原理(真理)や人の道(道理)を悟ることであろうと思う。

 弓道は射の修練を積み重ねて最終の目標である人の道を修め人格を向上することである。

 弓道をスポーツとして、或は娯楽として習い始めた人でも、稽古を重ねて段々上達するにつれて逐次弓道の本質に近づいてきて、その人の射に品格が顕れるようになってくる。射の品格とは洗練された体配や射技と共に、その人の円満な人格が滲み出た風格であって射技の達者だけでは射品とはならないのである。

 このような意味において弓道と禅とは一致し、弓道は立禅と云われる所以である。以下弓道の真髄について若干愚見を述べてみる。

 弓道は礼に始まり礼に終ると云われているが、この「礼」というのは単に立居振舞の礼儀作法とか行射における起居進退などの体配だけのことではなくて、広義の礼、即ち「人のふみ行なうべき正しい行い」であると考えるべきである。弓道が「人の道」と、どのように結びつくかということについて若干の卑近な例を挙げてみることにする。

一、礼儀作法を重んずること。

(1)起居進退総て礼に則した体配を習得すること。(無作法な動作は礼に反する)

(2)他人に迷惑をかけないように心掛けること。

(3)約束、ルール、時間を守ること。(約束ごとなどを違えるのは失礼である)

二、反省して前進の精神を涵養すること。

 礼記射義に述べられている「射は正しきを己に求む、己正しくして而して後発す、発して中らざるときは即ち己に勝つ者を怨 

 みず反ってこれを己に求むるのみ」とあるように常に反省して自己を正す習慣を身につけるようにすること。

三、人を尊敬し、信頼し、協調和合の精神を涵養すること。

射を行なう場合に重要なことは「和合」ということである。弓を射るのに両腕の力の均衡和合が必要であることは勿論であるが、それだけでは良射は得られないのである。

尾州竹林流の教義に相克相生という口伝があり、また五行と云って、万物の根源となる五つの元素についての口伝がある。この相克相生と五行というのは、木、火、土、金、水から成り立っており、

       木は土に克ち

       土は水に克ち

       水は火に克ち

       火は金に克つ

これを相剋と云い、換言すれば互に争い戦い、その一方が消滅するような内容をもっていると私考する。また、

     木より火を生じ、

     火より土を生じ、

     土より金を生じ、

     金より水を生ずる。

これを相生と云い、換言すれば、互に調和して双方共によい結果を生み出すことであろうと思う。このことを弓具について考えてみると、

 相剋は

     弱い弓に重い矢

     細くて弱い弓に太い弦

     強弓に細くて軽い矢

     弱い弓に堅い弽

 相生は

     弱い弓には軽い矢

     細くて弱い弓には細くて軽い弦

     強弓には太くて重い矢

     弱い弓には柔らかい弽

ということになる。また一本の矢を射るのに調和を必要とすることが沢山あり、その要点を挙げてみることにする。

(1)弓具の調和(前述の通り)

(2)左腕と右腕の働らきの調和

(3)縦軸と横軸の調和

(4)自分の体力と弓の強さの調和

(5)息合いと射の運行の調和

(6)三位一体(体と心と弓(技)の合一)

 以上述べたように全体がよく調和すれば「鉄石相剋して火の出ずること急なり」というような鋭く軽妙な離れを生じ、矢は巌をも通すような勢いで正鵠を貫き、その残身は金体白色西半月という寂寞雄渾な姿を得るのである。

 調和の精神の涵養によって人倫の要件にも叶うことになると思う。

四、精神統一について

 弓道の教義に一分三界とか雪の目付けとか支那の「列子」という書に記されている紀昌貫虱の伝説その他「精神統一によって的を大きくはっきりと見るべし」という教えがあり、その大意を次に述べることとする。

(1)一分三界について

一分三界とは、一分(三ミリメートル)ほどの小さい的を三界(三千世界・宇宙)のように大きく見開くようにし、

     且つその的の中心のみの一点を狙って中てよという意味である。

(2)雪の目付けについて

空から降ってくる無数の雪の中の一片を地に落ちるまで見失わないように精神を集中して的を狙えという教えである。

(3)紀昌貫虱の伝説について

尾州竹林流の伝書初勘の巻の弓脉の事の箇条で、紀昌という弓の名人がの中心を射貫いたという支那の伝説が記されている。その伝説によれば支那の昔(韓の時代)に甘蠅という弓の名人があった。その人が弓を引くと、まだ発たないうちに獣は縮んで伏せ、鳥は空から落ちるという程であった。甘蠅の弟子に飛衛という人があり、その弟子に紀昌という人があった。紀昌が飛衛に射を学ぶに際しどのような修行をするのがよいかと問うた。飛衛が答えて曰く、「先ず、どんなことがあってもをしない練習をして、それができるようになったら私に報告せよ」と云った。よって紀昌は家に帰って、妻がを織る下に横たわってが目の前にきても瞬をしないように修練を重ね、二年後にはの先が目の前にきても瞬をしないようになったので、そのことを飛衛に報告した。その時飛衛がまた云うには「小さいものが大きく見えるように修練せよ」と。そこで紀昌は家に帰って虱を髪の毛に結びつけて、それを南の牖間(窓)に垂れ下げてそれを見つめる練習をしたところ一ヶ月程すぎて、やや大きく見えるようになり、三年後には虱が車輪のように大きく見えるようになった。そして何を見つめるときでも山のように大きく見開くことができるようになり、燕角の孤(水牛などの角で作った弓であろうと推察する)に朔蓬の簳(よもぎの矢)をもって虱のを射貫いた云々。という伝説であるが、これは精神を統一することによって小さいものが大きく見えるようになるという教えである。

(4)無念無想と一射絶命について

無念無想と一射絶命とは異口同音と考えても差し支えないと思う。      

無念無想とは、ボンヤリと何も考えないということではなく、有念有想の極致即ち一つのことに全身全霊を傾注することであって、一射絶命と同じことであろうと思う。

以上精神統一に関する弓道の教義の修練によって、俗に云う根性と正しい判断力の養成が期待されるのである。

五、弓道の美的感覚について

 弓道は芸術であるとも云われ、観衆に対し美的感覚を与えるものである。そのためには清潔で簡素な服装と礼に即した体配と円熟した格調の高い射が要求せられる。

 全日弓連の弓道教本第一巻に弓道の最高目標は真善美の追求であると書かれているが、

·           真とは真実の探求であり正しい射法を求め正しい的中を得る努力をすることであり、  

·           善は、弓道の倫理性を云い、礼即ち人の道とか、精神を集中することや、協力和合によって偉大な力を発揮することの修練であって射を行なう時も社会生活においても共通する実践道である。

·           美とは、前にも述べた真であるものは美しく、善なるものも美しい。例えば矢渡しなどの射手と介添の善く調和した射礼は誠に美しく、競技会におけるチーム全体がよく調和した運行やそれに伴う高い的中率は観衆をして美的快感を与えるものである。

 この「美」ということについて私は青年時代に読んだドイツの哲学者カントの著書の翻訳の中で「美についての感覚」と題して大要次のように述べられていたことを想い起こす。

·           その一つは「優美」という感覚であり、

これは

     寡少な感覚

     装飾的な感覚

    有限的な感覚

     静的な感覚

    形式的な感覚であり

·           もう一つは「崇高」という感覚である。

  これは

   偉大な感覚

   簡素な感覚

   無限な感覚

   躍動的な感覚

   迫力的な感覚である。

この美的感覚を射礼について考えてみると、未熟なうちは美的感覚を与えないが、相当修練を積んで、息合い間合い起居進退、射技、的中などがよく調和するようになると観衆に対し優美な感じを与えるのであるが、更に洗練されて名人の域に達した人の射は飾り気がなく枯淡の味と迫力が感ぜられる「崇高」な美的感覚を観衆に与えるのである。

 最後に重ねて述べたいことは、弓道は弓射の修練によって人の道を追及することであり、禅と共通するものがあるということである。


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