名大弓道部の発展を祈って 師範 魚 住 文 衞
私はものごとを考える場合に、どんなことでもすぐに、弓道から得た体験に結びつけて考える癖がある。まことに我田引水的な考え方かも知れないが、弓射の道理は、弓道以外の総てのことにも相通ずると思われてならない。それが私の一種の信念にもなっているのである。
私は未熟ながら、行射に際し、平素の練習であろうと、試合であろうと、どんな時でも全身全霊を一射に傾注するように努めている。
別の言葉で言えば、(一)射技については、足踏みから残身に至る迄の総ての動作について射法に遵い正確に行うことに留意し、(二)精神的には、所謂七障(喜、怒、憂、思、悲、恐、驚)を去って心を平静に保つように心掛け、(三)肉体的には最良の調子(健康で睡眠をよくとって、疲労を十分回復する)を保つようにし、(四)弓具についても常に点検整備(弓を選び、矢を矯正し、弦を吟味し、弓の握り皮が滑らぬように工夫し弽も帽子に適当にギリ粉をつけて滑らぬように注意する)する等、技、神、体、器を完全に一致させるように努めているが、完全調和は至難の業である。しかし、偶々うまく調和したときは、すばらしい射となって実を結ぶ(正射正中)のである。
このように、射は、技、神、体、器の四者の調和が必要であることについては、誰も否定し得ないと思うが更にこれを細分すると、射技においては数百の法則があり、精神面に於ては、一朝一夕の鍛練では無我の境地になれるものではなく、肉体的にも全く健全を保つことは、むつかしいことであり、弓具についても同様完備することは容易なことではない。殊に、射技については、一つの所作は常に他の幾つかの部分と関連しつつ進行するのであって、例えば、弓を引くときは、右手の力のみで引けるものではなく、左手の強力な押す支えと足腰を中心とした縦の軸の安定が左手で弓を押し、右手で弦を引く動作に関連しているのである。従って、右手の強いことは左手の弱いことを意味し、縦軸(足踏みや胴作り)が崩れていては、横軸(左手の押しと右手の引き)のバランスを保つことが不可能となるのである。また、基礎的なことが順次完成していくことが、枝葉末節を完成せしめる大前提となるのであって、これらの幾つもの動作が、よく調和完成して始めて立派な一射を生み出すものである。相関関係、因果関係は、一射を行なううちに、幾十幾百と多数あることを銘記すべきである。
以上名射のコツは、名大弓道部の発展を期する場合に、ピッタリとあてはまると思う。
名大弓道部の発展を念ずる場合、先ず第一に、名大弓道部の最大の目標とするところは、何であるかを確認することが必要である。部員諸兄が弓道部へ入った動機にはいろいろあろうと思うが、要約すれば、『弓道部の活動を通じて、人間陶冶をしよう』ということであろうと信じる。弓道によって体育的な効果を求めようとすることも、大目標の一部分であることは勿論であるが、更に進んで、倫理的な目標、即ち、お互いの友情を深め、常に反省して正しきを己に求め、礼節を重んじ、部員の一人としての責任感を養成助長し、自ら求めて思考創造力を養なう(射術の真髄は、教え得るものでなく、弓書や師範は助言者であって、修学するのは部員各自である。初学のうちは、八節という法則に従って、概念的に射を教えられ習うのであるが、八節の法則そのものは、言語や文章で完全に表現することができないので、修学の進度に従って、射の真髄を自ら覚悟しなければならない)など、大きな目標がある筈である。弓道そのものは、大目標に対する一つの手段方法であるが、その手段方法の良否が目標達成のために大きな影響を及ぼすことは勿論であるので、より良い手段を選ばねばならないこともまた、当然である。
より良い手段方法を選ぶには、部員全員の知慧を結集することがよいと思うが、参考のため愚見を述べてみる。
先づ、組織の力を十分発揮することが必要であろう。大勢の部員のうちには、学年の高低や年令の相違、弓道熟度の違いがあり、その他いろいろの点において、各人夫々の長所を持っているのであるが、適材を適所に配置して、主将副主将を選び、マネージャーを選び、対外試合の都度選手を選び、更に弓道に最も理解のある弓道部長を推戴して、弓道部の運営に当るという方法は、どこの弓道部でも同じことであろうが、要は、その選び方と共に、これらの組織が夫々の立場に於て相互の関連調和を保ちつつ十分な活動をすることが、その弓道部が立派な成果を収める(大目的の達成)要因であると思う。
対外試合に於て優勝することは、部員の士気を昂揚し、選手の自信をつけ、大学当局や先輩や一般人の認識と理解を深める意味において誠に有意義なことであることは、言うまでもないことであるが、優勝そのものが弓道部の大目標ではない筈である。しかし、私は、決して優勝を過小評価するものではないが、もしも優勝を欲する余り選手中心主義の練習となって、小数の選手が大勢の部員と遊離するようなことになれば、それは、『弓道に於ける正射正中ではなく、ゴマカシの的中に相当するもの』であって、高く評価することはできない。これは現在の名大弓道部が、そのような状態にあるというように指摘したのではなく、将来の運営について、万が一にもあってはならないという老婆心からと、大目標を忘れないようにとの意味で愚見を述べた次第である。
優勝するまでの過程に於て、平素から部員も選手も常に結合を保ち、対外試合に臨んでは、陰に陽に部員全体の支援が必要であり、試合に臨む選手もまた、名大弓道部の代表という自覚と責任を持って、選手相互の十分なチームワークを中心とした行動をしなければならないことは勿論である。
このように、弓道部全体がよく調和結合して、それが期せずして優勝という栄誉に結びつくことが理想であって、所謂弓道における正射正中の位に相当するものである。更にこれを分析してみると、(一)平素の練習の態度としては、先ず、共用の弓具の手入れや射場の清掃、的張りも、お互に率先協力して行うようにし、(二)行射の際には、一射一射を射法八節に従って、忠実に励行することに心掛けねばならない。
この場合、射の基礎となる足踏み、胴造りなど縦の軸が崩れぬように特に注意しなければならない。弓を引く時、左右両手など動く部分に対して注意を払うことは勿論であるが、動かない部分への注意を怠らぬようにすることが肝要である。全体の調和した立派な射を行うことは、一朝一夕にしてできるものではないが、上達の過程に於ては、簡から難へ順を追って、確実に行なうようにすることが、上達への捷径であり、弓の強さは技能の度合いに従って、弱い弓から強い弓へと段階的に使いこなして行くようにしなければならない。
弱い弓であれば、正しい姿勢で弓が引けるが、強い弓を使えば、姿勢が崩れ易くなる。姿勢が崩れるようでは未だその弓を使いこなす程度に技能が熟していない証拠である。
このように、正しい練習方法によって練習することは、廻り遠いような気がするかも知れないが、反って上達が早くなり、行き詰りがなく、ぐんぐん技能が伸びて行くので、興味が湧いてくる。興味を持つ事によって更に上達に拍車をかけることになる。弱い弓を使って的前の行射をする場合は、射程を十間ぐらいに短縮するのがよい。その理由は、弓が弱ければ姿勢が弱く、正十文字の姿勢では矢が十五間先の的に届かないので、左手先を高くすることになり、左手先を高くすることは正十文字の姿勢を崩すことになって好ましくないからである。概ね正十文字の姿勢で矢が届く程度に射距離を近くし、順次技能の上達につれて、弓を強くして行って遂に十五間の定距離で、正十文字の姿勢で的中するようにすべきである。
次に、合同練習は、弓道部の活動として極めて大きな効果が期待されるものであって、昨年夏の合宿練習は多数の部員が出席し、大成功であったと思う。合宿練習の効果は、共同生活の中から、統制、協力、礼節、友情などについての収穫や、集中的な練習による技術の向上、弓道学科の研究、など大きな成果が得られたことと思う。今後、合宿練習を計画するには、更に十分検討して、時と場所と経費等の面から出来るだけ、大勢の部員が参加できるように、一層の工夫をしてもらいたいものである。
最後に、名大弓道部の諸兄にお願いしたいことは“大地に穴を掘ってみよ”という事である。穴を掘る場合、口径(巾)が狭くては、深く掘り下げることはできない。口径(巾)を広くしつつ、深さを求めなければならない。巾広く、然も深さを求めるには、一層の努力を必要とするであろう。巾は部員であり深さは上達である。巾と深さの調和が成功の基であることを確信しつつ、諸兄のご健闘を祈ってやまない次第である。