私は弓友Aさんから次のような話を聞いたことを思い出した。
Aさんは、旧制中学の時代に弓道部に入り、四年生五年生の時には副将として対外試合等で活躍し五年生の秋に武徳会の段級審査を受けて一級の免許状を受けたが、その頃になって「弓射を行うのに技が大切なのか、精神が大切なのか」という疑問をいだくようになった。それは、その当時師範から「弓道は精神が大切だ、邪念を交えず正常な心で行射しなければならない」ということを耳にタコがあたる程聞かされていたが、彼は「弓を射るのに正しい心でなければならない」ということは理解できたが、だからといってどれ程正しい心の持ち主でも弓を射るのに、その技術が不十分では上手な射手とはいえないのではないか?師範は精神を強調しておられるが彼には技術の方が重要だとしか思えなかった。それで彼は師範の言葉にもかかわらず中学卒業後、弓道の技術についていろいろの弓書を参考にして研究と練習に精神を傾注した。その甲斐あって、その後武徳会の段級審査を受ける度に初段弐段に合格し、破竹の勢で京都の武徳会本部の審査で参段に昇進し、中学時代に彼を育てた師範と同じ段位になってしまった。当時武徳会の審査は弐段までがいはゆる地方審査であり、参段以上は中央審査としておこなはれ、参段以上の受有者のうちから精錬証(現今の錬士)の称号が授与される制度になっていた時代のことで、称号は範士、教士、精錬証の三段階があり、全国で無段の範士や無級教士も多く居られたが、段位のある人は現今のように多くはなく、全国で七段範士の先生が一人だけで、以下六段範士、五段教士、四段精錬証、参段精錬証というのが実態であった。従って当時の参段といえば現今の五段にも相当したのである。
弱冠二十才で参段を許された彼は有頂天になって稽古に励んでいたが、大会に出場する度毎に精神の不安定な状態が続くようになってしまった。大会などは低段級の者から逐次高段位の者へと演技を進めるのが通例であって、県内では参段以上の者は極めて小数で然も参段以上の先生方は四五十才から八十才程度の年輩者ばかりであり、その中に若僧の彼が混って演技をするのだから、彼の心中には得意というか自慢というか雑念や不自然な緊張感がコビりついて、どうしても練習時のような演技ができなくて失敗ばかりを繰返し、正常な精神状態の必要性をこの時になって痛感するようになり、以来数年間は技術よりも心の修行の方へ重点を置き、一射一射を慎重に行う稽古を続けるように努めた。
彼は、このように修行の過程では「技か心か」と迷った時代もあったが中年になってから「技と心とは一体であることを悟った」ということである。
わたしはこのAさんの話を聞いて共感を覚え、これとよく似たことを思い出した。
弓を稽古する場合に「射形と射の内容」とどちらを重視すべきであるか、ということである。正しい射形と充実した射の内容の兼備が必要であることは勿論であるが、この両者を分離して考えた場合に、どちらが大切かということである。射形が良くても内容が充実していない射は駄目であるが、射形に欠陥があっては充実した内容を得られる筈がない。射の内容を充実させるためには先ず正しい射法射形が前提条件となる筈である。若しも射法射形が不合理であるならば、射の運行に伴い必ず筋力気息が乱れ無理なところ(強すぎる所や弱い所)が出来て、その無理なところへ意識が偏って気息や精神も不安定な状態になって満足な射を行うことはできないであろう。その一例として、斜面打起しの場合に左手を突張りすぎていると引分けの時には右手の方に力が入り意識も右手の方に偏って左右のバランスが崩れて右手離れになり、又、引分けの弦道が遠すぎると右手にムダな力が加わり両手運行が調和しなくなるのである。依て射の内容を充実させるためには正しい射法射形(足踏みから離、残身に至るまでの七道八節の法則)を忠実に実行することが肝要であることを今更ながら痛感する次第である。
初心のうちは指導者の教えのままに、それを実行しようとする気持はあるが自分の体が思うように動かないし、或程度技能が進むと七道八節を念頭から忘れて無造作に弓を射、或は我流を混えて射る習慣がついて十射六七中程度にはなるが、それ以上なかなか上達せず、寧ろ何らかの悪癖がついていることに気が付かないのが通例である。
数十年も修行して、先生といわれる人の中にも何等かの悪癖が一ツや二ツは必ずあるといっても過言ではないと思う(私もその一人である)。
時々自分の射形に対する反省をすることが大切であることを痛感するが、永年の癖は自覚してもなかなか治しにくいものである。病気癖は早期に自覚するのが早く治る秘訣である。